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  • 命に感謝

     私もとうとう65歳になり、昨年10月から老齢基礎・老齢厚生の年金受給が始まりました。ずいぶん長いこと人生の時間を使ってきてしまいましたが、ようやく年金生活という若い頃に描いていた悠々自適な人生のスタートを迎え、もう少し人生の時間を楽しめたらと贅沢な望みを持って生きております。

     私は今を生きていられることはある意味大変な奇跡であると考えています。世の中には事件や事故、犯罪などがたくさん起こっているうえに、加齢とともに病の危険度が高まっていきます。また最近は自然災害で命を落とす危険も増えています。そうした不幸な出来事に遭遇することなく今日まで生きてこられたことは自分の力でなど到底できるものではなく、何か大いなる力によって「生かされている」と考える方が自然ではないでしょうか。

     しかしながら今を生きている多くの人におそらくそんな感覚はないでしょう。命があるのが当たり前で、時に災害などに巻き込まれずに済んだ幸運を思うことはあっても、日々暮らしている中で命があることに特別な思いを抱く人はそんなにはいないと思います。

     その感覚は決して間違ったものではなく、特に若いうちは永遠に生きていられるかの如く「命はあって当たり前」くらいに思っている方がいいと私も思います。なぜならそういう意識でいる方があらゆることにチャレンジする気持ちを持ち続けられると思うからです。

     しかし私くらいの年齢になると、いつあの世からのお迎えが来ても不思議ではありません。この世で過ごせる時間は本当に残り少なくなっていることを毎日実感しています。

     だからこそ私はいつも今日が無事に終わったことに、そしてそれを支えてくれた命に感謝しています。明日のことはわからないけどとりあえず今日は無事に終わったと寝床に就くときの安らぎがどれほどありがたいことか、ようやく私にもわかったように思います。

     命を最後まで生ききる、そのために毎日命があることに感謝し続ける、こういう生き方を最後まで続けていけたらと願っています。

  • 便利さ=豊かさ?

     昭和の高度成長期に子供から青年に成長していった私には、自分の家が、社会全体が、豊かになっていく様を目の当たりにしていた経験があります。昨日までなかったものが社会に現れ、しばらくすると家の中にもあるようになるといった具合です。

     小学生のころ、子供向けの雑誌に未来の家族が過去のテレビ番組をビデオで再生して楽しむ姿が描かれていたのを覚えています。当時家庭にはテレビは普及していましたが、ビデオというのは放送用の特殊な機械でしかなく、これが家庭で利用できるなんて考えられないと思っていたものです。しかしそれから10年程度後に、家庭用ビデオはあっという間に普及し、誰もが録画・再生を行うのが当たり前の時代が来ていました。

     他にもそんな事例はいくつかありますが、あったらいいな、と思うようなものが次々に現実に現れ、生活を大きく変えていってくれました。昨日より便利で、清潔で、快適な暮らしを実感するたびに、人々は更にその先へと駆り立てられていったのです。おそらくこの先もあくなき欲望の行き着く先はなく、ただ「もっと、もっと」と進もうとするに違いないでしょう。

     確かに暮らしは便利で豊かになり、経済大国日本は世界に冠たる富裕の国なはずなのですが、その豊かさを実感することができないという奇妙な国になってしまいました。

     一つの技術革新がもたらす便利さに浴し、やがてそのことに豊かさを見出し、いつしかその便利さや豊かさに慣れてしまい、感動が薄れた日常でしかなくなっていく、こうして今の日本人はみな便利で豊かであることに何らの感動のない日々を鬱々と過ごしているように思えます。

     駅のホームに立つと、皆一様にスマホの画面を見て指を動かしていて、それだけでも気持ちの悪さを覚えますが、さらに言うとさして楽しそうでもありません。こんな生活をしながら毎日忙しいと口にしていることが私には不思議です。電車の待ち時間ですらこの有り様なのですからおそらくは自分の時間の大半をスマホに取られていると思われます。その状態で毎日忙しいも何もあったものではありません。

     半世紀前の暮らしとは比較にならないほど便利になり、快適に暮らしていながら、その豊かさを感じられないというどこかいびつな社会は、この先も心を凍らせたままで死んだような眼をして、スマホの画面を見続けるような奇妙な人間の集団を作り出していくだけになるような気がします。

     一体彼らはこの世を去る時に何を思うのだろうか、とは言え所詮他人事でしかないですが。

  • 必要か不要か

     すっかり日常生活に定着したポイントの利用ですが、私はどうもこの制度が好きになれません。確かに買い物をすることによってたまったポイントを利用してさらに別の買い物ができるとなれば、新たな出費をせずに商品が受け取れるので得したと言えるでしょう。また同じものを買うにしてもポイント還元率の高い日にまとめ買いをすればより多くのポイントを受け取れるため、買い物自体が得な感じがすることと思います。

     かく言う私もよく利用するスイーツの会社でそのポイントを利用して商品を注文することがあり、ポイントの恩恵にあずかったりもしています。しかしポイントを意識してスイーツを購入したことはなく、いつの間にかたまっていたものを期限前に利用したにすぎません。

     世間では「ポイ活」などと言ってポイントを上手に利用して節約をしながら生活の質は落とさないようにと努力している方がいると聞きますが、その一方でポイントのために今すぐ必要でなくてもいずれ使うような物をまとめ買いするというケースも多いようです。

     確かに限られた生活費の中で日々を賄っていれば、わずかな金額も馬鹿にしてはいけないのはわかります。しかし買い物というのは得か損かで行うものではなく、必要か不要かで行うべきものだと思います。得だからまとめて買っておいたほうがいいと言っては無駄な買い物をしたり、使わないと損だと思って無理にポイントを集めようとしたりして、気が付くと余分な出費を繰り返しているように思えてなりません。

     損よりは得な方がいいのは理解できますが、あまりにもこだわりすぎて目先の損得に振り回されているように見えます。金銭的な得や損なんてほんの一時のことなのにそこまで真剣にならなくてもいいという気がします。

     損得を考えるより本当に必要かどうかをよく考えて不要なものを買わない姿勢の方が、金銭的にも余裕ができるだろうし、心にゆとりも生まれると思います。

  • 財政検証 2024

    『今回の検証結果を踏まえれば、公的年金制度の持続可能性が確保されていることが改めて確認できたと私は思います』

     ちょっと古いですが2024年に行われた5年に一度の年金財政検証の結果を受けて時の厚生労働大臣はこのように述べました。試算結果を見る限りでは、最も経済成長が低くかつ労働参加者(厚生年金保険料の支払いを行う労働者)が今と変わらない場合以外のケースでは、国が最低保証としている所得代替率の50%を上回っている結果となっています。

     また現在でも労働参加者は増加傾向にあり、事業所の規模による制限もなくなる可能性が高く、パート・アルバイトの方や高齢者でも厚生年金への加入が可能になるケースが増え、その結果年金保険料の納付額も増大することが期待できます。

     とは言えそもそもここに挙げた所得代替率というのは、

    夫婦2人の基礎年金 + 夫の厚生年金/ 現役男子の平均手取り収入額

    という式で計算したものであり、その数値が50%を上回るというのは言い換えると、年金生活者は現役世代の収入の半分しか年金を受け取れないということです。従ってこの検証で年金制度の持続性は確認できたかもしれませんが、年金のみで生活していくことはかなり難しいと言っているようにも見えます。多くの人にとって制度の持続性も大事ですが、それよりも年金で生活していけるかどうかが最大の関心であり、その点には何も答えていないように思えます。

     当時この結果を受けて、タレントのパトリックハーランさんがあるTV番組で『国によって計算式が違うんですけど、貧困線というものがあって、平均収入の半額ぐらいが貧困線とよくいわれます。年金暮らしが事実上の貧困と(所得代替率の)計算式でなっているんですよ』とコメントしていました。実際に現行の基礎年金だけではまさしく貧困の状況であり、また令和5年度の男性の厚生年金(基礎年金を含む)受給額の平均は166,000円程度で、税、社会保険料を控除するとほぼ生活保護と変わらない金額になります。まさしく事実上の貧困なのです。

     また所得代替率の計算に用いている現役男子の平均手取り収入額を37万円としている根拠は示されていませんし、モデルとした家庭の平均所得にしても賞与込みで生涯の平均月収が43.9万円というのは高すぎるように思います。これらの数字の根拠が示されないと見ようによっては都合のいい数字になるように細工した結果ととられても不思議ではありません。

     いずれにしろこれらから推し量るにこの財政検証の結果として、現役世代に対しては「年金は確保されています。だから今後も国の制度に従って納めてください」と、一方年金受給世代に対しては「今後の年金は減っていくので貯蓄や投資、または勤労といった準備をしないと最低限の生活も難しくなります」と伝えることで、国の政策は間違っていないのだと突きつけた格好のものに思えます。

     年金財政の検証は現状では知りえない未来の状況を想定して行うため、一つ一つの数字の正確さを求めるのは酷であるし、現状では想定できない事象が将来発生することだって十分にあり得るためあくまで一つの参考ですが、しかしながらそこに国民が豊かに老後を過ごす将来像が浮かんでいないとしたら、こんな机上の検証をする意味はゼロという他ありません。

  • 食事において大切にしていること

     この国の食生活は本当に豊かになり、あらゆる食べ物が食卓に上ってくるうえに、街中には異国の見知らぬ料理でさえもほぼすべてが提供されるようになってきています。おいしいものはもちろん、クセになるもの、健康にいいとされるものなど、食べたいと思ったら大方の料理にありつけるほどに食が充実した現代になりました。また衛生管理や栽培、保存、養殖技術の進歩により、季節を問わずいつでも何でも食べられる世の中でもあります。

     人々の食に対する欲求は際限なく拡大しており、加えて最近は人生100年時代を健康に長生きするためにはどのような食事をどの程度続けることが効果的かなど、食と健康の関係にも眼が向けられその種の本が書店にたくさん並んでいます。

     また一方でいわゆるグルメといわれる人々の出現で、おいしいものは並んででも食べたいと考える人も多く、グルメを紹介したTV番組やネット動画は大変人気があるようです。

     何をどう食べようと他人の勝手だとは思うのですが、私にはどうも最近食というものがあるべき姿を失いつつあるように思えてなりません。

     本来の食はあくまで生きるため、命を長らえるためのものでおいしくなければいけないものではないですし、体のためといってあれこれ取捨選択をして行うものでもなく、いろいろなものをまんべんなく食べることが好ましいはずです。

     曹洞宗の大本山永平寺では食事の際は「五観の偈」というものを唱えてからいただくとのことですが、私もそのまねをしています。ただ私には五つは難しいのでそのうちの二つを頭の中で唱えることとしています。

     まず食事をするにあたり、その食事のためにいろんな形で労働を提供してくださった多くの人に感謝すること、次にこの食事をとれるだけちゃんと生きているか、働いているか、学問に励んでいるかといったことを顧みるというものです。ですから食べている物の味がよくないなど口にするだけでも失礼な話であり、そうした感謝の気持ちを忘れているとすればそこには食べられることが当たり前という傲りの心が現れているのでしょう。加えて本当にやるべきことをやったうえでの食事であるかどうかは常に反省をし続けないと、食事が当たり前のことに成りやすいです。

     また体のことを考えて食べることは五観の偈にも出てくるのですが「〇〇は体にいい」、「△△は血液の状態をよくしてくれる」など食品の効能を過度に気にするものではなく、食そのものを体の健康を保つためのものととらえています。むやみに効能を気にした食事というのは、却って体本来の持つバランスを悪くするだけではないでしょうか。

     とは言え味にこだわることも、食品の効能を気にした食生活を送ることも別に否定はしません。それがその人自身の喜び、あるいはその人の健康に役立つと考えてのことですから、他人の私がとやかく言うことではありません。ただ、食事をとれるということが当たり前ではないことだけは理解していてほしいと思っています。

  • 年金の損得勘定 その2

     年金を受け取るに際して損得勘定はすべきでないと申し上げましたが、これはあくまで受け取る側の考え方です。

     以前、厚労省のHPに「年金は払うだけ損だ」といった意見に対して同省の回答が書かれていましたが、その内容が「年金は起こりうるリスクに社会全体で備え、皆さんに安心を提供するものです。そのため経済的な損得という視点で見ることは、本来適切ではありません」というものでした。

     私の知る限り厚労省では、年金保険料を払いたくない人を説得する際に、将来的には払った分より多く戻ってくるので得であるといった趣旨の説明をしていたように思いますが、いつから損得勘定ではなくなったのでしょう。加えて老齢基礎年金についていえばその支給額が生活保護を下回っているばかりか、生活保護なら医療費も免除されていますから、基礎年金のみの人の立場からすればこの状況のどこが『安心』なのか全くわかりません。

     また会社員は厚生年金には加入が義務付けられており、年金保険料を払うか否かの選択権は認められていません。強制的に加入させられた上に、年金保険料を絞れるだけ絞り取った後は、老後生活を保障するなどとはどこにもうたっていないからこの先は自助努力で、という厚労省が何をもって『安心』と言っているのでしょうか。こんなことでは多くの人が感じている年金保険料を納めても損にしかならないということに私も同調せざるを得ません。

     私は年金というのは長生きの保険と考えて保険料を納めてきましたし、現在はその給付を受けています。従って私自身は損得勘定を持ち込むつもりはありません。しかし厚労省が「経済的な損得という視点で見ることは、本来適切ではありません」と言うのはあまりにも不適格な回答です。給与や賞与から決まった額を納めている人にとっては、納めた額に見合った年金が受け取れるかどうかが最も肝心なことで、そこには損得勘定があるのが当然です。

     この回答では少なくとも得にはならないと言っているようなものです。本来回答すべきなのは、例えば年金保険料を自分で投資信託等を利用して運用した場合と年金機構で運用した場合の比較を行い、その結果年金の方が有利であるとわかる内容などの年金の優位性です。厚労省が匙を投げた今、年金制度への国民の不信感はさらに強くなっていく一方でしょう。

  • お金は道具 その2

     お金は道具であると言ってはみましたが、私自身のことを振り返るとその道具をちゃんと使っているとは言い難いのが実情です。私はいわゆる「散財」というものの経験が殆どありません。それは手元にお金がないことも一因ですが、実のところ私も「お金の召使い」のような状態にあり、お金を使うためには余程納得した上でないと使おうとしません、一言でいうと「吝嗇(ケチ)」なのです。

     お金を使うとなると、その対象が自身にもたらす「満足」の度合いが十分あるかをどうしても考えてしまいます。たとえばお気に入りの高級時計を買うことでどの程度私が満たされるのか、買う前にあれこれ思いを巡らします。そしてその満足感が値段に見合っているかそれ以上と判断すれば購入に踏み切ることでしょう。一方で見合っていない、あるいはよくわからない状態では、多くの場合購入を諦めてしまいます。

     こうしてお金を使うことに慎重になり、さらに私が「満足感が値段に見合わない」と判断したものがやはりそのとおりだったとすると、次に何かの購入を検討する際に余計慎重になり、結果として買わずに「余計なお金を使わずに済んだ」と胸をなでおろすことが増えていってしまいます。

     ですが本当に買わなくてよかったのかというと、実はその点は全く分からずに終わっていることに気付いていないのです。買うかやめるか迷った末に買うのをやめたとすると、買ったことによる結果は全く見ることが出来ていないのです。確かにお金を使わずに済んだかもしれませんが、得た物は何一つありません。一方でもし買っていたとしたら、期待したような満足は得られずに無駄にお金を使ったという結果かもしれませんが、少なくとも物自体は自分の手に入ります。そして買った結果がどうだったのか、また一年先、その先にどうなるかを見ることが出来るのです。

     お金が道具だというのなら本来はためらわずに使わなくてはいけないものでしょう。しかしどうしてもそこで使ったお金に見合った満足が得られるかを考えてしまって二の足を踏むようでは、結局お金の主人にはなっていなくて、逆にお金の側から「もっと大切に扱わないと」と脅されている、つまりお金が主人の状態にあると考えられます。

     もちろん闇雲に使えばいいというものではありませんが、お金は道具、使ってこそ価値があるものと言うのであれば、なるべく躊躇わずに使いたいときに使うのが好ましいのです。

  • お金は道具

     物と物を交換することで欲しいものを手に入れる方法を見出した人類は、さらにその先に進んでどんなものとも交換可能で、かつ持ち運ぶのに容易な「貨幣」を発明するに至ります。貨幣はその価値をほぼ普遍に保つことができ、またいつでも使用可能でしたから、貨幣を蓄えること=富を蓄えることと置き換えられ、その結果富める者が出現し周りとの差が生まれることとなっていきます。

     貨幣にはその誕生時点から富の貯蔵手段としての役割があり、加えてその貯蔵量の多さは豊かさの証であり、人々はその豊かさに憧れを持っていました。誰しもがお金を沢山持ちたいと考え、ある者は事業の成功を願い、ある者は一攫千金の夢を追い、またある者は地道な蓄えを続けた訳です。結果の如何はともかく、人々の願いは「金持ち」に向かっていったのです。

     しかしながらお金のそもそもの役割は交換の手段だったはずで、交換に使われないお金というのはお金本来の機能を果たしていないものということになります。使われないお金は何らの価値を生み出すこともなく眠っているだけなので、社会にとっては存在しないものと一緒なのです。お金は交換に利用されてこそ新たな価値を生み出しうるもので、そうして多くのお金が人から人に渡ってこそその存在の意義があるのです。

     ところがそうした富の集積こそ豊かさの証と思い込んでいる人がほとんどで、その結果貯蓄や投資といった手段の如何を問わずにお金を集めることに執着していけば、お金以外の価値が見えなくなっていくのも当然のことでしょう。

     諺に「人、酒を飲み、酒、酒をのみ、酒、人を飲む」というものがあり、酒を飲みすぎると、最後に人は酒に飲まれるということを戒めているものですが、お金に執着した人は「人、金を使い、金、金を使い、金、人を使う」となり最後は金の奴隷になるだけではないかと思います。

     お金はあくまで幸せを感じるための道具です。如何に貯める、増やす、儲けるかではなく、如何に使うかにもっと神経を使うべきであると、この歳になって気づいた次第です。

  • 年金の損得勘定

     ネットを見ていると年金の受取額が生活するのに十分でないという声がよく取り上げられています。その場合には年金の受け取り時期を繰り下げることによって増額する方法が案内されており、さらにそのためにはできるだけ長く働いた方がいいと付け加えられています。確かに繰り下げを使うと最大で84%程度年金が増やせるので出来るだけ長く働いて、公的年金の受け取りを先延ばしするのは一つの考え方です。

     その一方で75歳まで受け取りを延ばした場合、男性であればいわゆる平均寿命まで約6年となり、仮に平均寿命までの命だとすると年金の受け取り期間がかなり短くなってしまい、65歳から受給した場合と比べて生涯での年金受給総額が少なくなってしまう場合もあります。

     そのため多くの人が「いつから受け取るのが一番得なのか」ということを真剣に考えているようです。またそうした試算に基づいて何歳まで生きたら損しなかったことになるのかをシミュレーションしてみる人もいるようです。

     確かに年金は老後の生活の支えですが、私は損得で考えるのはいかがなものかと思っています。私は前にも記載のとおり老後の生活は年金で賄うことを基本スタンスとしています。そのために受給が開始になる前から自分と家内の年金の見込額を調べて、その約85%が手元に来るものとして計算し、算出された金額の範囲で生活していける状態かどうかをしっかりと検証してきたからです。今後支給額の逓減や物価上昇による調整を余儀なくされることでしょうが、それらもある程度見込んで別途年金資金も用意しています。

     それ故に年金を受け取るに際しての損得勘定は全くありません。そこには公的年金はあくまで長生きした場合の保険であるという考えがあり、仮に貯蓄がなくても最低限の生活はできるものという理解をしているからです。最初から年金の範囲で生活をすることができれば長生きすることに対する不安はかなり小さくできるはずです。

     もちろんそれでも不安がなくなるわけではありません。しかし現在起こっていないことに対して過度に不安を感じて対策をしても、結局また新たな不安が出てくるだけでキリがないことです。

     自分の寿命はわからないのですから年金の損得勘定などしてみたところでそのとおりに物事が進むわけではありません。また結果として得な勘定になったところでそれで喜べる感覚も理解できません、もうすぐあの世へ旅立つというのに。あまりつまらない損得に毒されず、年金は長生きに対する保険と割り切ってまず今この一瞬を大切に生きた方がいいのではないでしょうか。

  • 足るを知っていますか?

     世は令和という新時代に入って、昭和生まれの私としてはまさに隔世の感があります。かつては夢の技術だったことが生活の中に当たり前に存在し、便利という感覚すらないほどに進歩した世になりました。そうでありながら多くの人が何かしら満たされない思いや精神的な苦痛(ストレス)を感じながら日々を過ごしています。

     おそらくは今あるもので満たされているはずなのに「もっと、もっと」とさらに次を求め続けていることによるものでしょう。その結果より便利に、より快適に、より楽しくと要求の度合いは増すばかりでとどまるところを知りません。

     私にはその様子が、満たされない思いを何とか満たそうと努力しながら、一方でどこまで行っても満たされることがないという不思議なパラドックスを続けているように見えてしまいます。

     それはつまり「己に足る」を知らないからに他なりません。いや、もしかしたらわかっているけれども、周りを見回して「こんな程度で満足したら恥ずかしい」と思って、望んでもいないのにさらに上を目指そうとしているだけなのかもしれません。

     満足は文字通り「足るが満ちている」ということです。しかしその足るがどこまでのことを指すかわからないのであれば、永久に満たされることはなく、「足る」がならない「不足」や満たされない「不満」になってしまいます。

     技術の進歩による生活の改善は実に好ましいことですが、本当に自分が求めている姿なのかは自分にしかわからないことです。自分にとっての「足る」はどういうものなのか、しっかりと理解したうえで生きていかないと、一生不満なままの人生を送ることになります。

     私は今を生きている命、何とか意思どおりに動かせる体、それに衣食住が足りればそれで十分満足だと考えて生きています。もちろんどう生きていくかは個々人の自由ですが、満たされない思いを抱え続けたままで人生を送るのはいかがなものかと思わずにいられません。己に足るとはどういうことなのか、その点をもう一度考えてみてはいかがでしょうか。