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  • AIが創造する未来に興味はない

     AIというとこれまでは人間の単純労働がAIに置き換わっていくだけのものと思っていましたが、今や医師や弁護士といった知的レベルの高い職業に従事することも、さらには悩みごとの相談相手や恋愛対象者になることも可能になる未来が見えています。また以前に新聞で見た記事ですが、AIは知能の点でも国内最高峰と思われる東京大学理科Ⅲ類の入試で「首席合格」できるほどに優れているとありました。AIの能力は最早生身の人間が太刀打ちできないレベルにまで到達している気がします。

     AIが膨大な情報の中から的確な回答を引き出す力は人間の比ではありません。またAIは生命体ではないため稼働し続けることが可能で時間の制約を受けません。そのような状況下で人間がやるべき職業など存在するのでしょうか。現状ではまだAIは不完全な存在ですが近い将来多くの仕事がAIにとってかわられる日が来ることでしょう。

     またAIを搭載した家電や車もでき始めていて、これらの家電は人々の家事の負担を軽減し、自動運転の車は安全確実に人を目的地に運ぶでしょう。その結果人々は自分のやりたいことに向ける時間が増えると予想され、多くの人が未来への夢や憧れを描いているようです。

     ですが私に言わせればそうしたわずらわしさからの解放によって、人はAIの指示に従って動くだけになるような気がしています。極端かもしれませんが、AIの指示がないと自分自身のことでさえ判断、実行できないようになるのではないかと危惧しているのです。一つの例を挙げると、体調がすぐれないときにAIの診断を受けてからでないと医者にもかかれない、自分の体のことなのに自分で判断できないような状況になっていそうな気がするのです。

     仮にAIが今の調子で進化した場合、最初は人間の制御がいくらか効くでしょうが、そのうちにAIが自らで行動するでしょう。恐ろしい話ですが、AIが地球の存続のために最も有害なのは人類と判断すれば、人類を滅亡させることもあり得ます。それは極端だとしても、人間の行動の先を予測できるAIが出来てしまえば人間に勝ち目はありません、それどころかすでにAIは人間を欺く行動をとることも確認されています。人間の指示に従って動いているように見せかけ、裏では全く反対の行動をとるというのですから、遅かれ早かれ人間がAIに従うしかなくなる未来が待っているように思えます。

     人間が誕生するに際しての精子と卵子の選別に始まって、進むべき学校、専攻する科目、就職先や業務内容、恋愛や結婚の対象者、果ては病に倒れた場合の延命措置の要否まであらゆることの指示をAIが出し、人間はそれを忠実に実行するだけの存在になりかねないのです。

     昔読んだ手塚治虫先生の漫画「火の鳥」の中に、未来の人々が地上を捨てて地下に降り、その地下では「マザー」と呼ばれるスーパーコンピューターが全ての指示を出し、人々がその指示に従って生きている様子が描かれていました。登場人物の一人が、「俺を生んだ精子と卵子はあのコンピューターに選ばれたものだ、だから母親みたいなもんさ」と言っていたのを思い出し、人の誕生さえもコンピューターの指示で決まるような時代を見ようという考えは、今の私には全くありません。

  • プライドでメシは食えない

     令和の世になってからというもの、年金だけでの生活はなかなか難しく、好むと好まざるとにかかわらず再就職先を探す年金受給者が増えていると聞きます。こうした再就職に際して以前の勤務先での実績や肩書を基準に考えているために、なかなか思うような再就職先にたどり着けないケースがあるようです。ですがそれらの実績や肩書はあくまで以前の勤務先のものでしかなく、これから入っていこうとしている会社にとっては何ら説得力を持たないことは明らかです。過去の自分がどうであろうと、今はただの無職の高齢者に過ぎないというのが偽りのない評価でしょう。

     首尾よく再就職を果たしたとしても、過去の自分の実績に自惚れているせいでつい上から目線で指導、あるいは指示するかのような言動や行動になってしまい、結果として周りとの溝ができてしまうというケースを時々耳にします。また従前の職場での再雇用となっても、かつての部下が上司だったり、重要な会議には参加できない雑用係という扱いに嫌気がさしてしまうという話もあるようです。いずれのケースも『俺はこんなものじゃない』というプライドが引き起こしているのではないかと推測されます。

     しかしながら新たな勤務先の業務内容はもちろん、意思決定の方法、経営における理念、社内の人間関係など何もわからないうちから、以前の経験のみに基づいて物事を進めようとしても、周りとの溝ができるのは当然の帰結と言えるでしょう。また再雇用のようなケースでは、自分の方がより業務に精通しているという考えがあり、そのため頼まれもしないのに勝手にアドバイスをしたり、ひどいときには自分の昔語りをして誰も興味のない武勇伝を延々と続けたりと、業務遂行の邪魔になるだけということも珍しくありません。

     再就職であれ、再雇用であれ、まずは今までの延長線上にあるものではないことを自覚する必要があります。端的に言えば右も左もわからない新入社員レベルなのだと自覚することから始めていった方が、仕事を進めていきやすいと思われます。その上で相手からアドバイスを求められたときには状況や立場などを踏まえた自身の意見を伝える、こうして少しずつ溶け込む努力を続けていくのが好ましい姿でしょう。

     長年働いてきた結果として築き上げられたプライドが大切なことはわかりますが、いくらプライドを持っていても、わからないことがわかるようになることも、できないことができるようになることもないのですから、その状態で仕事ができるはずもなく、したがってそれではメシは食えないのです。

     ただの自己満足にすぎないつまらないプライドをさっさと捨てて、知らない、できない、わからない自分を晒してこそ、次の道が開けるというものです。

  • いつまで働かせるつもり?

     2025年度の年金改革の具体案として、基礎年金の納付期間の5年延長ということが取り上げられていました。現行制度では基礎年金の納付は20歳から60歳までの40年間ですが、これを65歳まで5年間延長するという案です。納付期間が延びることで納付保険料の総額も増える一方、基礎年金の年額も増額になるため結局は得になるといいますが、このことは現在の定年がいくつであるかを問わず65歳まで働く必要があることを意味しています。そうした変化に対応するため企業では、いわゆる役職定年を廃止するところも出てきているようです。

     この案は検討の結果次回の財政検証での再検討となりましたが、この案のとおり納付期間の延長が現実になると、大学を出て65歳までの43年を働くことになり、さらにこの先年金の支給開始が70歳にでもなろうものなら48年間、約半世紀を働き続けることになる可能性も見えてきます。人生100年時代といってもその半分が働く時間なんて想像したくありません。さらに言えば健康寿命なら72歳(女性は75歳)、平均寿命でも81歳(女性は87歳)なのに一体いつ自分の人生を楽しむのかと考えてしまいます。

     2023年7月にフランスで年金の支給開始を62歳から64歳に下げようとしたところ各地でデモが起こりました。そのデモの参加者のプラカードには「私たちは働くために生きているんじゃない」と書かれたものも見られました。国民性の違いがあるとはいえ、今回の納付期間延長には日本でももっと真剣に怒りをぶつけてもいいのではないかと思います。半世紀も働くのではまさにこの世に働きに来たとしか思えないからです。

     有名な『DIE WITH ZERO』という本の中で、オーストラリアで終末期医療に携わる方が余命数週間の患者達に人生で後悔していることは何かを聞いたところ、男性の1位(男女合わせても2位)は「働きすぎなければよかった」でした。半世紀に渡って働くようになれば日本人は間違いなく人生での労働時間比率で世界一を記録するでしょうし、加えて間違いなく人生を後悔することになるでしょう。

     働くことはいいことでしょうが、この世に働きに来たのかと問われれば、YESと答える人はそう多くはないはずです。まして毎日の仕事がつらい、苦しい、ストレスだらけな状況だとしたら、耐え凌ぐだけの人生になってしまいます。それではせっかくいただいた命に申し訳ない思いがします。

     仕事を続けるも辞めるも本人の自由なのですから、だれがいつ辞めても生活に支障がないように国としてセーフティーネットを用意すべきなのに、十分な用意が出来ないからなるべく長く働けというのでは本末転倒というものです。

  • まずは自分が信じること

     他人のことはわからないと言いましたが、だからと言って私は他人の考えを全く気にせず自分中心で生きている訳ではありません。何らかの理由で接点を持つ必要がある相手が出てきた場合には、何よりもまず相手のことを信じることから始めます。

     この社会に生きている以上、他人との関わりなしには物事は進みません。そしてそこには必ず自分の意思と他人の意思の衝突が生まれます。多くの場合は一方が他方の意思を全面的に受け入れることで円滑な関係が築かれます。もしすべてがそういう具合なら何も問題は起きないのですが、どうしてもそこにはお互いの意思の押し付け合いや意思のすれ違いといったことがが起こってしまいます。

     こうしたことが起こるのはお互いが相手の意思より自分の意思を優先するあまり、双方ともにかどちらか一方が自分の意思を相手に押し付けた結果と言えるでしょう。その先に待っているのは全く不毛な意思の押し付け合いか、一方が折れて不承不承ながらも他方の意思を通すこととなり、いずれにしろ好ましい結果を得たとは言えません。長い間生きてきてそうした不毛な意思の衝突を飽きるほど見てきたというのに、その経験から何も学ぶことなく高齢者になっているとしたら、あまりにも残念な姿というものでしょう。

     この点においては私自身も例外ではありません。意思がぶつかり合えば相手の意思を尊重しつつも納得いくまで意思を戦わせるでしょう、その結果物別れに終わってしまうことも当然起こります。しかし私は何らかの妥協点が見つかったならば、先ずは相手を信じることにしています。相手の意思に対して自分が信じたのであれば、たとえ結果が思わしくないものであっても、また相手の裏切り行為にあったとしても、それはすべて信じた自分の責めに帰すことになるからです。

     世渡りが下手と言えばそのとおりですが、私はこれまでの人生をこの考え方で生きてきました。その結果ひどい裏切りを受けたこともあります。ただ幸運なことにそうした状況を乗り越えられたし、世間の厳しさも学ばせてもらったと思っています。もちろんこの先にまた裏切られない保証などないし、次に起きた時には絶望から人間不信になってしまうかもしれません。

     それでもやはり信じることから関係を築いていく以外に、私には方法がないと思っています。常に疑心暗鬼にかられ疑いの目をもって相手を見続けているよりは、自分が信じた結果と割り切ってその先に歩みを進める、損ばかりの人生かもしれませんが私の生き方はこれが好ましいと思っています。

  • 私には他人のことはわからない

     現代に生きている殆どすべての人が、いつも他人からどう見られているのかを気にして生きているような気がします。行動でも言動でも常に相手がどうとらえるかに関心があり、どうしたら好かれそうかあるいは嫌われてしまうか、どうしたら評価が上がるかまたは下がるかといったことが気になって仕方がないという風に見受けられます。

     そんな風に自分がどう見られているかを気にしていると、相手の反応である行動や言動から何とかその真意を探ろうとして、却って相手の機嫌を損ねることも珍しくありません。そこまでいかなくても相手が全くの無意識に示したようなちょっとした態度ですら、自分にとって思わしくなければ気になってしまい、相手がどう考えているのか、その心中を何とか探ろうといろいろと思案を巡らすことがあるものです。

     ですがどんなに考えても相手の心の中はわかりません。それどころか自分自身の心の中だって全然わからないのです。また直接「どう思っているか?」尋ねても本当のことを言うとも限りません。所詮、相手はその人独自の様々な判断基準に基づいて行動しているのですから、こちらの思っている通りにならない場合の方が多くて当たり前なのです。その上時間が経てば考え方も変わっていくでしょうから、常に同じ判断をするとも限らないのです。

     他人はその人自身の考えに従って様々な判断をして行動しているのですから、そこに自分の考えを持ち込んで「こうあるはずだ」とか「こうあるべきだ」と言ってみても始まりません。

     私は他人の考えという、自分がコントロールできないものに対して働きかけるような真似はしない方がいいと思います。他人の考えはわからないものという前提に立って、たとえ期待どおりでなかったとしても先ずは他人の意見や意思を尊重する、その先に互いの理性的な対話が生まれるものではないでしょうか。

  • 命に感謝

     私もとうとう65歳になり、昨年10月から老齢基礎・老齢厚生の年金受給が始まりました。ずいぶん長いこと人生の時間を使ってきてしまいましたが、ようやく年金生活という若い頃に描いていた悠々自適な人生のスタートを迎え、もう少し人生の時間を楽しめたらと贅沢な望みを持って生きております。

     私は今を生きていられることはある意味大変な奇跡であると考えています。世の中には事件や事故、犯罪などがたくさん起こっているうえに、加齢とともに病の危険度が高まっていきます。また最近は自然災害で命を落とす危険も増えています。そうした不幸な出来事に遭遇することなく今日まで生きてこられたことは自分の力でなど到底できるものではなく、何か大いなる力によって「生かされている」と考える方が自然ではないでしょうか。

     しかしながら今を生きている多くの人におそらくそんな感覚はないでしょう。命があるのが当たり前で、時に災害などに巻き込まれずに済んだ幸運を思うことはあっても、日々暮らしている中で命があることに特別な思いを抱く人はそんなにはいないと思います。

     その感覚は決して間違ったものではなく、特に若いうちは永遠に生きていられるかの如く「命はあって当たり前」くらいに思っている方がいいと私も思います。なぜならそういう意識でいる方があらゆることにチャレンジする気持ちを持ち続けられると思うからです。

     しかし私くらいの年齢になると、いつあの世からのお迎えが来ても不思議ではありません。この世で過ごせる時間は本当に残り少なくなっていることを毎日実感しています。

     だからこそ私はいつも今日が無事に終わったことに、そしてそれを支えてくれた命に感謝しています。明日のことはわからないけどとりあえず今日は無事に終わったと寝床に就くときの安らぎがどれほどありがたいことか、ようやく私にもわかったように思います。

     命を最後まで生ききる、そのために毎日命があることに感謝し続ける、こういう生き方を最後まで続けていけたらと願っています。

  • 便利さ=豊かさ?

     昭和の高度成長期に子供から青年に成長していった私には、自分の家が、社会全体が、豊かになっていく様を目の当たりにしていた経験があります。昨日までなかったものが社会に現れ、しばらくすると家の中にもあるようになるといった具合です。

     小学生のころ、子供向けの雑誌に未来の家族が過去のテレビ番組をビデオで再生して楽しむ姿が描かれていたのを覚えています。当時家庭にはテレビは普及していましたが、ビデオというのは放送用の特殊な機械でしかなく、これが家庭で利用できるなんて考えられないと思っていたものです。しかしそれから10年程度後に、家庭用ビデオはあっという間に普及し、誰もが録画・再生を行うのが当たり前の時代が来ていました。

     他にもそんな事例はいくつかありますが、あったらいいな、と思うようなものが次々に現実に現れ、生活を大きく変えていってくれました。昨日より便利で、清潔で、快適な暮らしを実感するたびに、人々は更にその先へと駆り立てられていったのです。おそらくこの先もあくなき欲望の行き着く先はなく、ただ「もっと、もっと」と進もうとするに違いないでしょう。

     確かに暮らしは便利で豊かになり、経済大国日本は世界に冠たる富裕の国なはずなのですが、その豊かさを実感することができないという奇妙な国になってしまいました。

     一つの技術革新がもたらす便利さに浴し、やがてそのことに豊かさを見出し、いつしかその便利さや豊かさに慣れてしまい、感動が薄れた日常でしかなくなっていく、こうして今の日本人はみな便利で豊かであることに何らの感動のない日々を鬱々と過ごしているように思えます。

     駅のホームに立つと、皆一様にスマホの画面を見て指を動かしていて、それだけでも気持ちの悪さを覚えますが、さらに言うとさして楽しそうでもありません。こんな生活をしながら毎日忙しいと口にしていることが私には不思議です。電車の待ち時間ですらこの有り様なのですからおそらくは自分の時間の大半をスマホに取られていると思われます。その状態で毎日忙しいも何もあったものではありません。

     半世紀前の暮らしとは比較にならないほど便利になり、快適に暮らしていながら、その豊かさを感じられないというどこかいびつな社会は、この先も心を凍らせたままで死んだような眼をして、スマホの画面を見続けるような奇妙な人間の集団を作り出していくだけになるような気がします。

     一体彼らはこの世を去る時に何を思うのだろうか、とは言え所詮他人事でしかないですが。

  • 必要か不要か

     すっかり日常生活に定着したポイントの利用ですが、私はどうもこの制度が好きになれません。確かに買い物をすることによってたまったポイントを利用してさらに別の買い物ができるとなれば、新たな出費をせずに商品が受け取れるので得したと言えるでしょう。また同じものを買うにしてもポイント還元率の高い日にまとめ買いをすればより多くのポイントを受け取れるため、買い物自体が得な感じがすることと思います。

     かく言う私もよく利用するスイーツの会社でそのポイントを利用して商品を注文することがあり、ポイントの恩恵にあずかったりもしています。しかしポイントを意識してスイーツを購入したことはなく、いつの間にかたまっていたものを期限前に利用したにすぎません。

     世間では「ポイ活」などと言ってポイントを上手に利用して節約をしながら生活の質は落とさないようにと努力している方がいると聞きますが、その一方でポイントのために今すぐ必要でなくてもいずれ使うような物をまとめ買いするというケースも多いようです。

     確かに限られた生活費の中で日々を賄っていれば、わずかな金額も馬鹿にしてはいけないのはわかります。しかし買い物というのは得か損かで行うものではなく、必要か不要かで行うべきものだと思います。得だからまとめて買っておいたほうがいいと言っては無駄な買い物をしたり、使わないと損だと思って無理にポイントを集めようとしたりして、気が付くと余分な出費を繰り返しているように思えてなりません。

     損よりは得な方がいいのは理解できますが、あまりにもこだわりすぎて目先の損得に振り回されているように見えます。金銭的な得や損なんてほんの一時のことなのにそこまで真剣にならなくてもいいという気がします。

     損得を考えるより本当に必要かどうかをよく考えて不要なものを買わない姿勢の方が、金銭的にも余裕ができるだろうし、心にゆとりも生まれると思います。

  • 財政検証 2024

    『今回の検証結果を踏まえれば、公的年金制度の持続可能性が確保されていることが改めて確認できたと私は思います』

     ちょっと古いですが2024年に行われた5年に一度の年金財政検証の結果を受けて時の厚生労働大臣はこのように述べました。試算結果を見る限りでは、最も経済成長が低くかつ労働参加者(厚生年金保険料の支払いを行う労働者)が今と変わらない場合以外のケースでは、国が最低保証としている所得代替率の50%を上回っている結果となっています。

     また現在でも労働参加者は増加傾向にあり、事業所の規模による制限もなくなる可能性が高く、パート・アルバイトの方や高齢者でも厚生年金への加入が可能になるケースが増え、その結果年金保険料の納付額も増大することが期待できます。

     とは言えそもそもここに挙げた所得代替率というのは、

    夫婦2人の基礎年金 + 夫の厚生年金/ 現役男子の平均手取り収入額

    という式で計算したものであり、その数値が50%を上回るというのは言い換えると、年金生活者は現役世代の収入の半分しか年金を受け取れないということです。従ってこの検証で年金制度の持続性は確認できたかもしれませんが、年金のみで生活していくことはかなり難しいと言っているようにも見えます。多くの人にとって制度の持続性も大事ですが、それよりも年金で生活していけるかどうかが最大の関心であり、その点には何も答えていないように思えます。

     当時この結果を受けて、タレントのパトリックハーランさんがあるTV番組で『国によって計算式が違うんですけど、貧困線というものがあって、平均収入の半額ぐらいが貧困線とよくいわれます。年金暮らしが事実上の貧困と(所得代替率の)計算式でなっているんですよ』とコメントしていました。実際に現行の基礎年金だけではまさしく貧困の状況であり、また令和5年度の男性の厚生年金(基礎年金を含む)受給額の平均は166,000円程度で、税、社会保険料を控除するとほぼ生活保護と変わらない金額になります。まさしく事実上の貧困なのです。

     また所得代替率の計算に用いている現役男子の平均手取り収入額を37万円としている根拠は示されていませんし、モデルとした家庭の平均所得にしても賞与込みで生涯の平均月収が43.9万円というのは高すぎるように思います。これらの数字の根拠が示されないと見ようによっては都合のいい数字になるように細工した結果ととられても不思議ではありません。

     いずれにしろこれらから推し量るにこの財政検証の結果として、現役世代に対しては「年金は確保されています。だから今後も国の制度に従って納めてください」と、一方年金受給世代に対しては「今後の年金は減っていくので貯蓄や投資、または勤労といった準備をしないと最低限の生活も難しくなります」と伝えることで、国の政策は間違っていないのだと突きつけた格好のものに思えます。

     年金財政の検証は現状では知りえない未来の状況を想定して行うため、一つ一つの数字の正確さを求めるのは酷であるし、現状では想定できない事象が将来発生することだって十分にあり得るためあくまで一つの参考ですが、しかしながらそこに国民が豊かに老後を過ごす将来像が浮かんでいないとしたら、こんな机上の検証をする意味はゼロという他ありません。

  • 食事において大切にしていること

     この国の食生活は本当に豊かになり、あらゆる食べ物が食卓に上ってくるうえに、街中には異国の見知らぬ料理でさえもほぼすべてが提供されるようになってきています。おいしいものはもちろん、クセになるもの、健康にいいとされるものなど、食べたいと思ったら大方の料理にありつけるほどに食が充実した現代になりました。また衛生管理や栽培、保存、養殖技術の進歩により、季節を問わずいつでも何でも食べられる世の中でもあります。

     人々の食に対する欲求は際限なく拡大しており、加えて最近は人生100年時代を健康に長生きするためにはどのような食事をどの程度続けることが効果的かなど、食と健康の関係にも眼が向けられその種の本が書店にたくさん並んでいます。

     また一方でいわゆるグルメといわれる人々の出現で、おいしいものは並んででも食べたいと考える人も多く、グルメを紹介したTV番組やネット動画は大変人気があるようです。

     何をどう食べようと他人の勝手だとは思うのですが、私にはどうも最近食というものがあるべき姿を失いつつあるように思えてなりません。

     本来の食はあくまで生きるため、命を長らえるためのものでおいしくなければいけないものではないですし、体のためといってあれこれ取捨選択をして行うものでもなく、いろいろなものをまんべんなく食べることが好ましいはずです。

     曹洞宗の大本山永平寺では食事の際は「五観の偈」というものを唱えてからいただくとのことですが、私もそのまねをしています。ただ私には五つは難しいのでそのうちの二つを頭の中で唱えることとしています。

     まず食事をするにあたり、その食事のためにいろんな形で労働を提供してくださった多くの人に感謝すること、次にこの食事をとれるだけちゃんと生きているか、働いているか、学問に励んでいるかといったことを顧みるというものです。ですから食べている物の味がよくないなど口にするだけでも失礼な話であり、そうした感謝の気持ちを忘れているとすればそこには食べられることが当たり前という傲りの心が現れているのでしょう。加えて本当にやるべきことをやったうえでの食事であるかどうかは常に反省をし続けないと、食事が当たり前のことに成りやすいです。

     また体のことを考えて食べることは五観の偈にも出てくるのですが「〇〇は体にいい」、「△△は血液の状態をよくしてくれる」など食品の効能を過度に気にするものではなく、食そのものを体の健康を保つためのものととらえています。むやみに効能を気にした食事というのは、却って体本来の持つバランスを悪くするだけではないでしょうか。

     とは言え味にこだわることも、食品の効能を気にした食生活を送ることも別に否定はしません。それがその人自身の喜び、あるいはその人の健康に役立つと考えてのことですから、他人の私がとやかく言うことではありません。ただ、食事をとれるということが当たり前ではないことだけは理解していてほしいと思っています。